酒井田柿右衛門 (サカイダカキエモン)

作家についての紹介/履歴

1596年肥前国に生まれる。
     初代は乳白色(濁手)の地肌に赤色系の上絵を焼き付けるという柿右衛門様式(後述)と呼ばれる磁器の作風を確立し、その作品はヨーロッパなどにも輸出されマイセン窯などでは模倣品も作られた。
     初代、没。その息子である二代、二代の弟の三代は製作期が重なっており、作風にも大きな差は見られないが、三者とも極めて技量が高かったと言われる。これに加えて四代(三代の息子までの間が初期柿右衛門とされる。
     五代~七代目までが中期柿右衛門とされる。五代は技量に芳しくなかった。六代は意匠・細工に優れた叔父の渋右衛門にも助けられ、食器類のほか花器、香炉など様々な磁器製品を高い水準で量産することに成功したため、中興の祖とされる。また1724年には嘆願書を藩に提出し、臨時の発注の一部が酒井田家に用命されることとなった。この一方で、高い技術が要されることなどから七代以降に濁手の作品は中絶してしまう。
     八代、九代と十代期間は後期柿右衛門とされ、主に染付の磁器を製作した。七代から八代にかけては四角の中に福の字が入った「角福」と呼ぶマークを施したものが多い。
     十一代は「角福」のマークの商標登録の可否などを争う訴訟を起こして経済的に困窮したが、海外にも積極的な出品を行なった。1919年には出資する事業家と共同で十二代が柿右衛門合資会社を設立し、赤絵技術と「角福」銘を供与した。しかし美術品の制作を志向する十二代は会社と経営方針が合わず、1928年に関係を解消した。以降それぞれが「柿右衛門」作品を制作したが、1969年に和解し、その後合資会社は名義を使用していない。
     十二代と十三代は1947年頃から濁手の復活を目標とし、1953年に初めて濁手の作品を発表した。濁手の製作技術は1955年に国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択され、1971年には重要無形文化財に指定されている(保持団体として柿右衛門製陶技術保存会を認定)。
柿右衛門様式主に大和絵的な花鳥図などを題材として暖色系の色彩で描かれ、非対称で乳白色の余白が豊かな構図が特徴である。
濁手独特の乳白色の地色は、赤色の釉薬との組み合わせによって非常に映えると言われる。しかし、原料となる土の耐火性が強いなど調合が困難である。さらに焼成時・乾燥時の体積変化が非常に大きいため、作製が困難であり歩留まりが良くない。
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